千年祀り唄
―無垢編―


3 無垢

(注)鱗手作「オ・ト・ス・ク・ナ」との共演


夕闇に山は燃え、鳥は古巣へ向かって飛んで行く……。風は垂れた稲穂の黄金色の群れを揺らしていた。
何処から聞こえて来るのか、澄んだ笛の音が遠い過去への記憶へと導く。

山の裾野に広がる小さな村だ。そこで働く若い夫婦。額に汗かき、土に塗れて働いている。彼らは刈り入れに忙しかった。朝は陽が昇るのを待って野らに出て、晩は太陽が沈み、手元が見えなくなるまで作業に精出す。それでも彼らは幸せだった。去年は日照りで稲が育たなかったが、今年は豊作。早くやや子が欲しいと鎮守さまに願いもしたのだ。

そんな彼らを見つめる小さな目。
「あの人かい?」
若い男が訊いた。
もっこがうなずく。
「では、お行き」
男はもっこを包んだ気泡を飛ばす。すると、その気泡は稲穂の上をゆらりと飛んで光に透けた。
――ありがとう。さよなら、むく
気泡が割れて光に溶けた。そして、現れた子どもが一人、畦道を駆け、まっすぐ女のもとへ飛んで行った。
そして、最後の夕日の一欠片が消えるのと同時に、女の子宮に溶けて行った……。

「さよなら……。今度は満ち足りた生を楽しんでおいで……」
無垢はそう言うと踵を返した。
「行くよ。もう冷たい夜が来る」
――いくよ
――つめたいよるがくる
もっこが三人、彼のあとに付いて行く。

「なしてだ? あの童はつれて行かねえだか?」
ふいに草むらから顔を出した少年が訊いた。
「おれが……見えるのか?」
無垢が足を止めて訊く。
「ああ。おら、ずっとここで見てただ」
「ならば、わかるだろう。あれはもっこ。生まれる前の魂だ」
「いんや、ぜんぜんわかんねえだよ」
無垢はじっと少年を見つめた。人の姿はしているが、それは人間ではない。においを感じない。すったけの着物に紐帯を結び、そこに荒削りにこしらえた笛が一本差し込んである。

「おまえが、さきほどの笛を……?」
「ああ、おら、オットコニャーだ」
「オトスクナ」
すっと背後に現れた背の高い女が言った。
「そうだった。蜘蛛ちゃん、どこ行ってただ?」
少年が女に抱きつく。
「私ではない。おまえが勝手にいなくなったのだ」
女が言った。
「おら、楽しそうな声がしたから来てみただ」

もっこたちはことの成り行きを見守るように、無垢のうしろへ隠れている。
「無垢……」
女が言った。妖の目でじっと男を見つめる。だが……。

「……行こう」
そう言うと男はオトスクナたちに背中を向けた。
――いこう
――どこへ?
もっこたちが戸惑いながらも男のあとに付いて行く。

「行っちまうだか? なんで……」
少年が歩み掛けたその時、女が止めた。
「よせ」
「なんでだ? おら、あの子たちと遊びたかったのに……」
「あれらは生きていないのだ」
「生きていない?」
「そう。そして、死んでもいない。時の狭間を生きる者……」
「よくわかんねえだ」
「無垢は死んだ赤子の魂を集め、再びこの世に転生させるために存在する。人と触れ合うことはできぬのだ」

「おらは人だか?」
「今はもう人ではない。だが、まだ微かに人だった時の名残がある」
「そんだだからだめなのか?」
「もっこは無垢と旅を続けるうちに生まれるべき女の腹を選ぶ。その時だけ光の糸が繋がる」
「蜘蛛ちゃん、詳しいんだな」
「そうだな。長生きしてるといろいろな出会いを経験する……それだけのことだ」
闇は藍色に似た植物に女の横顔を反射させた。

無垢は森の奥へと足を踏み入れた。
――どこへいくの?
――どこまでいくの?
もっこたちが訊く。
「ああ……。ずっと遠いとこへ……」

男は歩き続ける。
――あそぼうよ
――ねえ、あそぼう
「そうだね。なにして遊ぶ?」

――かくれんぼ!
――いいね。かくれんぼ
「それじゃあ、おれが鬼だよ。目を瞑っているからかくれておいで」
もっこたちが歓声を上げて散らばった。

「もういいかい?」
――まーだだよ

「もういいかーい?」
――まーだだよ

夜がふけても森には笑い声が響いていた。

「もういいかーい?」
――もういいよ
無垢はもっこたちを探した。木の幹。切株のうしろ。草むらの影。
「みんな、どこに行ったんだろう」

無垢が周囲を歩き回る。と、草むらの中からかさかさと音が聞こえた。くすくすと笑う子どもの声も……。
「そこだな?」
無垢は微笑して近づいた。

「そこにいるのはだーれだ?」
長い草を掻き分ける。と、いきなり黒い影が飛び出した。

「何? おまえは誰だ?」
それはもっこではなかった。無垢よりも大きな、そして、凶暴な影。
「おまえは……!」

――むく!
その者の手にもっこの一人が握られていた。
「放せ!」
無垢はそれを取り返そうとした。が、それは巨大な鬼の姿となって男を払い退けた。
鋭い鉤爪によって裂かれた無垢の額からは血が流れていた。

「ここは……餓鬼の領域だったのか……」
無垢が呟くように言った。
「そうだ。おまえらがのこのことやって来たおかげで、おれは新鮮な魂を喰うことができる」
鬼は笑った。

――むく!
悲鳴に似た叫び。
「やめろ! その子を放せ!」
太い腕にすがりついた無垢の胸に鬼は爪を突き立てる。
「うぐっ……!」
その胸から鮮血が散る。

――むく!
切株の影からもう一人のもっこが飛び出した。
「来るな!」
無垢は叫んだが、鬼はそのもっこも捕まえると二つ同時に噛み砕いた。
「ああっ……!」
彼は絶叫した。
鬼に食われてしまっては、もう二度と
転生することなく、永遠にこの二つの魂は戻って来ないのだ。

「おれのせいだ……! おれの……」

夜の中に妖気が漂っていた。
「血のにおいがする……」
女が言った。
「悲しい声もするだ」
少年も言った。
妖の蜘蛛はその本性を表し、夜を駆けた。

「無垢!」
男は血だまりに倒れていた。目の前には巨大な鬼が、老木の影で震えているもっこに手を掛けようとしたところだった。
「許さぬ!」
蜘蛛が放った糸が鬼の手を絡め取った。
「邪魔をするか! この女郎めが!」

「この世で一番美しく、弱い者たちに酷い仕打ちを下すとは……」
憎悪に赤く燃える瞳。
「貴様とて人を食らうだろうに……。さては男に惚れていたか?」
鬼が身体を震わせて笑った。
「……」
「おぞましい姿の妖が最も不釣り合いなこの男に惚れていたと言うのか? ははは。こいつは愉快だ」

「黙れ! もう二度と下劣な口を利けぬようにしてくれる」
女は大蜘蛛の姿となり、鬼をその糸で吊るし上げた。
「この化け蜘蛛が……!」
「そうとも。私は人からも妖怪からも恐れられて来た。だが、心までは醜くなってはおらぬ。人を食らうのは生きるためだ。生まれる前の赤子の魂は泡粒でしかない。決して腹を満たすものではないはず……」
「しかし、奴らはおれの縄張りに侵入した」
「脅して追い出せば済むこと。悪戯に命を奪う必要などなかったのだ」
「貴様、妖のくせに人間を庇うとは……」
「無垢は人間ではない。無垢は、そのやさしさ故に人を捨てた者だ。春吉と同じように……」
「春吉?」
草むらに立つ少年の姿を見た時、鬼は瘴気を感じて動揺した。
「まさか、このような童に何ができるというんだ」
蜘蛛の目が怪しく光る。と同時に少年が手にした笛を唇に当てた。その目は細い三日月のように鋭く銀色に輝いていた。そして、その先端から毀れ出る音は闇に忍び、鬼の心臓を射抜いた。

「ば、馬鹿な……! このおれが、あんな子どもに……」
鋼の一音が鬼の息の根を止めた。

――むく……?
光の輪に包まれてもっこが、倒れた彼の傍に舞い降りた。
「いけない……。おれに触れてはいけない……」
微かに目を開けて無垢が言った。
「おれは……汚れてしまった……。もう無垢のままではいられない」
――いやだよ、むく……。いなくならないで……

「頼む。この子を……。生まれるべき者に巡り会えるまで……」
男が蜘蛛の女に言った。
「駄目だ。おまえの力がなければ、このもっこは生まれ変わるための儀式を迎えられない」
女が言った。
「だが、おれはもう……」

――きめた! おれがおまえになる! おれがうまれかわってむくになるから……
「駄目だ。そんなことをすれば、おまえがおまえでなくなってしまう……。おれは……身勝手な思いが招いたおれの罪だから……」
無垢は蜘蛛の女をその目に捕らえようとした。が、その目は霞んで見えなかった。

「無垢……」
女が男の手に触れた。はじめて触れた互いの手の感触に男は微笑した。そして、その身体が光に溶け始める。
――だめえ!
もっこが叫ぶ。

「鼓動を……」
春吉が笛を吹いた。透き通る風の夜露のように、汚れを寄せ付けない凛とした音……。
「今、鼓動を一つに……」
もっこの魂が光に溶けた。それから無垢の身体と混ざり合い、再び再生した。
「一つに……」
少年は笛を鳴らし続けた。

「無垢……」
再び触れようとした女の手を拒む男。女ははっとして春吉を見た。少年は静かに笛を下ろすとにこりと笑って言った。
「鼓動を一つに縫い付けてやっただ」

「春吉……」
「これでまた無垢は昔と同じ。けど、汚れを受け付けない無垢の手に触れることはできなくなっただ」
「私も汚れていると言うのか」

「みんな汚れているだ。おらも、蜘蛛ちゃんもみんな……」
「そうだな。そうかもしれないな」
「だから、蜘蛛ちゃんはずっとおらのもんだ」
そう言って抱きついて来る少年を女は拒まなかった。
「ずっとおらのもんだ。誰にも渡さねえ。たとえ、汚れなき無垢の魂の持ち主にだって……」
「春吉……。私もだよ。おまえの音を……誰にも渡すものかえ」

そんな二人のことをじっと草むらから見つめる目があった。
「ぬけがけは許さないかんね」
蛇の娘が舌を出す。春吉の連れである。

誰もいなくなった森に男が一人。切株に腰掛けて空を見ていた。汚れなき魂の子どもを連れて、彼は再び虹の谷を目指す。
「忘れないよ。妖の蜘蛛の女。そして、おれと同じ人の世界では生きられなかった少年よ」
遠くで笛の音が響いていた。美しい旋律は男の胸に溶け込んだやさしさを思い出させた。
「行こう。またいつか何処かで巡り会うその日まで……」
忘れ得ぬ旋律を奏でる二つの鼓動に向けて、彼は話し掛けた。